プロフィール

大田京子プロフィール

生誕から幼少期まで
1978年9月9日、福岡で暮らす会社員の家庭に次女として生まれる。

両親がスポーツ好きだったこともあり、幼い頃から体を動かすことが大好きだった。おかげ様で体格も良く、短髪だったせいか、周囲の人からはよく「ぼく」と間違えられた。まもなく父の転勤で岡山に引っ越し、小学4年までは自然豊かな環境で育ち、遊ぶ場所はもっぱら田んぼと川だった。
西高宮小学校時代

小学5年生からは福岡に移り住み、西高宮小学校に通う。

岡山時代の親友がバスケットを始めたことをきっかけにバスケをはじめ、今現在もクラブチームの所属し、市民リーグ に出場するなど現役を続けている。小学校の裏山は、いわゆる秘密基地になるためよく遊んだ。
福岡女学院中学校・高等学校時代
中学校ではバスケ部に所属し、教室で机に向かうより圧倒的に体育館にいる時間の方が生き生きとしていた。

高校に入学してからは、バスケに没頭する一方で、生徒会や聖歌隊にも所属し活動の幅を広げた。とは言え、小学生からの「おてんば」は健在で、怪我や生傷が絶えない学生時代。

当時、怪我の治療のために通院していた整骨院は、後に人生に大きな影響を与えることになる。
福岡大学時代(商学部)
中学・高校とバスケ三昧だった私は、「スポーツの持つ魅力」を子どもたちに伝えたいとの思いから、体育教師になることを夢見て体育学部を受験するも、あえなく失敗。

結果として福岡大学の商学部に入学することになる。入学後は、マーケティングを専攻し社会経済の基本を学んだ。また、心理学にも興味を持ち人間の内面を学ぶことにも力を注いだ。

授業以外では、バスケサークルで活動をするも、本格的にバスケがしたいとの思いが次第に強くなり、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、受験に失敗した体育会のバスケ部に途中から入部した。

入部後は、スター選手ばかりの中で、圧倒的な力の差を目の当たりにして愕然とするも、真剣に練習に取り組み、誰よりも自主練に励んだ。

努力の甲斐あってか、大学4年生になる頃には「副キャプテン」としての命を受ける。プレーヤーとしては決して一流とは言えなかったが、チームのまとめ役として懸命に取り組んだ結果、憧れだった全国大会「インカレ」にも出場できた。

これらバスケットを通じて得られた経験は、「諦めなければ、必ず想いは実現する」という成功体験となり、自身の考え方の基礎となっている。
ユニクロ時代
商学部でマーケティングを専攻したこともあり、当時フリースの大ヒットで急成長を遂げていたユニクロに入社を決めた。

当時のユニクロは、まさに時代の最先端を走るトップランナーであり、年齢や性別にとらわれない「完全実力主義」を貫いていた。また「服は脇役、主役は自分」との考え方に共感し懸命に仕事に向き合った。

入社してから30歳までの8年間、熊本、長崎など5店舗で勤務し、新人教育や店舗運営に携わり、西日本最大の旗艦店であるミーナ天神店の立ち上げにも関わった。またプライベートでは、二人の子どもを出産し初めて母となった。

働く母として私は、会社をこれまでとは違う目線で見るようになり、いわゆるワークライフバランスの難しさを肌で感じることになる。実際、子どもがいることで、夕方で仕事を終えなければならない、サービス業でありながら土日を休まざるを得ない、キャリアを積みたくても仕事内容に制限がかかるなど、いつの間にか「子どものせいでキャリアが積めない」と思うようにいかなくなっていた。

単に仕事を続けるだけでもいくつもの困難があるのに、ましてやキャリアを積むとなると到底不可能に思えた。そして、子育て中の女性も無理なく働けて、活躍できる職場にするには、周囲の理解に基づいた「職場環境の整備」がいかに重要であるかを痛感した。

このころユニクロでは、顧客満足(CS)は従業員満足(ES)なくして実現しないとの思いから、SA(サービスアテンダント)という役職ができた。私は迷わずSAに志願し、SA一期生として職場環境づくりに邁進した。しかしながら、採算が取れていないのではないか、費用対効果が見えにくいということから、SA制度は廃止となり、元々していたフロア店長としての仕事内容に戻ることになった。

そうした中、30歳を機に今一度自分の人生を振り返り社会を見渡した時に、本当に必要なことは何か、自分にできることは何かを熟考した。日本の社会全体がストレスで溢れ、多く人が笑顔を忘れ、人を思いやる気持ちが隅に追いやられる社会、そんな中生きる人々の心を、少しでも楽にするお手伝いをしたい、心を無くす仕事ではなく心を育む仕事をしたい!との強い思いから転職を決意。1年の準備期間を経てユニクロを円満退社。
専門学校時代
ユニクロを退社後は、心のケアをする手段として東洋医学を選んだ。副作用もなく人間本来の持つ力を高める鍼灸の技術を習得すべく、31歳で鍼灸師の専門学校へ入学した。

午前中は整骨院で働き、日中は専門学校で学業に励みながらも、二人の子育てに奮闘する3年間を過ごした。晴れて鍼灸師の国家資格を取得。また並行して学んでいたカウンセリングに関する技術も習得。
鍼灸師時代
専門学校を卒業すると同時に、学生時代通院していた整骨院に就職。心身のケアをする部門へ配属され、「こころとからだの治療室」院長に就任。様々な悩みを抱え、肩こりや腰痛など身体からSOSを発せられる患者さまと向き合う中で、社会の厳しい現実も目の当たりにしてきた。

自分の犠牲にして身を粉にして働くうちに、いつの間にか心をすり減らし、幸せを見失い、生きる希望さえも持てなくなる患者さま。目の前の患者さまが健康を取り戻し、笑顔になる姿に喜びを感じつつも、患者さまの育た環境、今の家庭環境や職場環境には立ち入ることはできず、治療師としての限界を感じていた。

一方院長としては、スタッフの職場環境改善に力をいれ、とにかく共に働く仲間が今の仕事に心からやりがいを持ち、楽しく働ける職場にすべく様々なことに取り組んだ。まずは、プライベートの時間も大切に出来るようにサービス残業を徹底的に無くすことから始め、スタッフ発案の企画を毎月実施するなど、チームとしての職場作りを意識した。

また、お子様連れの患者様が気軽に治療を受けられるように始めた「預かり保育」は、後に待機児童問題で悩んでいたスタッフの子どもを預かる「院内保育園」へと進化し、女性が働きやすい職場づくりの一助となった。結果として、治療そのもののみならず、院全体の雰囲気も良くなり、患者さまはリピーターとなり、赤字だった経営は黒字へと転じた 。
政治家を志す
仕事としては非常に順調で、職場環境も良くなっていたが、一方で社会情勢は相変わらず停滞していた。国民の85%が老後に明るい見通しが持てないと感じ、共働きが増えたにも関わらず、世帯収入が300万円(月給25万円)以下である世帯はここ20年で2割増え、全体の34%を占めるまでになっていた。

貯蓄率はとうとうマイナスに転じ、非正規雇用は全体の4割にまでなっている。加えて日本の自殺率は世界の中で6番目に多い。なぜ、世界でも「豊かな国」と言われるここ日本で、自ら命を絶つ人がこれほどまでに多いのか、怒りにも似た感情が治療師の私を突き動かした。

もはや本当に必要なのは、心身の治療ではなく、社会そのものの治療なのではないか、「誰かがいつか変えてくれる」と勝手な期待を抱くのではなく、「自らが政治の世界に入って社会の根本治療をする、こ のことこそ、私に託された使命なのではないか」そうした強い思いに掻き立てられ、政治家になることを決意した。